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維新人名事典

■三条実美 
さんじょうさねとみ(1837年~1891年)
 
幕末の公卿。明治初年の政治家。江戸末期8月18日の政変で長州に亡命。山口湯田に滞在した。明治新政府では太政大臣(総理大臣の前官職名)をつとめた
 
■高杉晋作 
たかすぎしんさく(1839年~1867年)
 
幕末の志士で長州藩士。号 東行(とうぎょう)。吉田松陰門下きっての俊秀で、維新の主役長州藩の牽引者。当時としては革命的と評される「奇兵隊(平民の部隊)」を結成する。第二次長州征伐では、幕府の大軍を撃退し、その名を天下に示した。慶応3年、27才の若さでこの世を去るが、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し(伊藤博文)」の言葉通り、その天才ぶりは後世に語り継がれた。
 
■木戸孝允 
きどたかよし(1833年~1877年)
 
政治家・長州藩士。旧姓名・桂小五郎。号 松菊(しょうぎく)。松下村塾に学んだ後、薩摩藩と薩長連合を結び倒幕勢力の結集を実現した。明治政府では開明的な政治家として手腕を発揮した。
 
■西郷隆盛 
さいごうたかもり(1827年~1877年)
 
政治家・薩摩藩士。号 南洲(なんしゅう)。下級武士ながら藩主島津斉彬(なりあきら)の腹心として薩摩藩政改革運動で活躍。その後、大久保利通とともに尊皇倒幕の道を進んだ。薩長連合では武力倒幕の中心的な存在となり、戊辰戦争では東征大総督府総参謀として指揮にあたった。明治以後は大久保らと意見を分かち、政府への不満を持った士族に擁立されて西南戦争を引き起こしたが敗れ、鹿児島の城山で自刃。享年50才。
 
■大久保利通 
おおくぼとしみち(1830年~1878年)
 
政治家・薩摩藩士。号 甲東(こうとう)。薩長連合に尽力し、倒幕・王政復古に奔走した。明治政府では、木戸孝允らとともに政治の中心で活躍した。岩倉使節団の一員として外遊し、征韓論を退け内務卿に就任後は事実上の独裁権を握り、富国強兵・殖産興業政策を推進した。明治政府の基礎を固めるが、明治11年不平士族により暗殺。享年48才。
 
■吉田松陰 
よしだしょういん(1830年~1859年)
 
幕末の思想家。藩校「明倫館」に出仕、18才で師範となる。西洋兵学や儒学を研究するが、脱藩の罪により萩に閉居。その頃から幕府政権の改革革命を志す。その後、ペリー軍艦への密航を試みるが、拒絶され萩に送られ下獄。許された後、松下村塾を開き、その強烈な革命思想は短期間に多くのすぐれた門人を輩出。危険思想を恐れた幕府による「安政の大獄」で死刑に処される。享年29才。
 
■伊藤博文 
いとうひろぶみ(1841年~1909年)
 
政治家・元老・公爵。号 春畝(しゅんぽ)。長州藩の下級武士出身で、松下村塾に学び尊皇攘夷運動に加わる。明治11年には内務卿(大臣)となり、大日本帝国憲法の制定に尽力した。明治18年には初代内閣総理大臣に就任。枢密院議長、貴族院議長を歴任し、明治25年には第二次内閣を発足。日清・日露の戦争を勝利に導く。その後初代の朝鮮統監に就任するが、明治42年に暗殺される。享年68才。
 
■大村益次郎 
おおむらますじろう(1824年~1869年)
 
軍政家。長州山口市鋳銭司(すぜんじ)で出生。旧姓名 村田蔵六(むらたぞうろく)。緒方洪庵(おがたこうあん)に学び、長州藩に西洋兵術を取り入れて改革指導した。下関事件、長州征伐ならびに薩長等連合軍では討幕戦争等の参謀としてすぐれた戦術を展開した。1869年(明治2年)、明治新政府軍の兵部太輔(ひょうぶだゆう)となり、日本近代軍制の創始確立につとめたが、その急進的改革が保守派の反感を招き、同年京都で襲われ天寿を全うすることなく死んだ。享年45才。「オランダおいね」との淡い恋の物語は、博学多才・機略縦横な彼の生涯に一輪を添えるものとして知られる。
 
■山県有朋 
やまがたありとも(1838年~1922年)
 
陸軍元帥・政治家・元老・公爵。号 含雪。長州藩の下級武士の出身で吉田松陰の松下村塾に学ぶ。長州藩の改革派に属し、高杉晋作とともに奇兵隊を率いた。維新後は大村益次郎の後をついで新軍制の中心となり、徴兵令の制定、参謀本部の創設、軍人勅論の発布をはかるなど日本軍制の確立につとめた。明治22年・32年の両年にわたり内閣を組織し、明治42年伊藤博文の死後は元老、軍閥の長老として政治軍事に強大な実力をふるった。大正11年84才で死去。
 
■井上馨 
いのうえかおる(1835年~1915年)
 
政治家・侯爵。号 世外(せがい)。長州藩の下級武士の出身。山口市湯田で出生。尊王攘夷運動に加わったが、伊藤博文とイギリスに留学して攘夷の非を悟り、藩の方針を開国・倒幕へと導いた。明治維新政府では大久保利通とともに殖産興業政策を進めた。1876年(明治9年)には日韓修好条約の締結にあたり外交問題にも活躍。また、外務卿(大臣)として欧米諸外国との不平等条約改正の交渉促進のための極端な欧化政策、いわゆる「鹿鳴館時代」を現出させた。その後も元老として政財界に重きをなし大正4年80才で死去。
 
■久坂玄瑞 
くさかげんずい(1840年~1864年)
 
幕末の尊王攘夷派の長州藩士。吉田松陰の松下村塾に学び、その英才は高杉晋作と並び称された。尊王攘夷運動では1862年(文久2年)にイギリス公使館を焼き打ち、1863年(文久3年)8月18日の政変で尊皇攘夷派が退けられると、翌年勢力回復のために「禁門の変(蛤門の変)」を起こして若くして自刃した。享年24才。
*禁門の変:8月18日の政変で京都から退けられた長州藩(尊王攘夷派)は、翌年の池田屋騒動を機に同藩家老や久坂玄瑞らが中心となり京都に迫り、七卿と藩主毛利敬親の免罪と入京を求めた。しかし、朝廷側に拒絶され京都御所の蛤門を中心に、会津、桑名、薩摩*の藩兵と戦い敗れた。(*薩摩藩は長州藩との勢力争いのため一時的に佐幕派に接近していた)
 
■坂本竜馬 
さかもとりょうま(1835年~1867年)
 
江戸末期の土佐藩の志士。武市瑞山(たけいちずいざん)の勤皇同盟に加わったが、1862年(文久2年)脱藩して勝海舟の門に入る。3年後、薩摩藩の援助で長崎に社中をつくって海運貿易に従事した。その後長州藩と薩摩藩との和解提携を斡旋し、1866年(慶応2年)薩長連合盟約を成立させた。翌年脱藩の罪を許され、社中を海援隊と改めた。倒幕派の勢力集結につとめ、幕府の政権放棄と天皇中心の雄藩諸侯会議の設置を計画し大政奉還を実現させた。さらに新政府の機構とその根本政策とを立案するが、その途中1867年(慶応3年)京都で幕吏に襲われて死んだ。享年32才。
 
■野村望東尼 
のむらもとに(1806年~1867年)*「ぼうとうに」とも読む
 
幕末の女優歌人。俗名茂登(もと)。福岡藩士浦野勝常の三女として生まれる。福岡藩士との離婚後24才で同藩士野村貞貫と再婚し、夫婦で大隈言道に師事し和歌と書を学ぶ。54才で貞貫と死別し、剃髪して平尾村向陵に隠棲したが勤王の志士と接近。風雲急をつげる京に行ったり、平野国臣、高杉晋作、西郷隆盛、僧月照らを山荘にかくまうこともあった。高杉晋作の臨終の地となった下関新地の林算九郎邸では、晋作の「おもしろきこともなき世をおもしろく」という上の句に「すみなすものはこころなりけり」と続けた話はあまりにも有名。慶応3年4月晋作が逝って間もなく山口から湯田に移り、その後防府の荒瀬未亡人宅に身を寄せるが7ヶ月後に病死。
 
■品川弥次郎 
しながわやじろう(1843年~1900年)
 
安政4年松下村塾に入って吉田松陰に学ぶ。文久2年4月に上京して寺田屋事件に関係し、11月には高杉晋作らと外国公使襲撃を計画。元治元年の禁門の変では八幡隊隊長として戦うが敗れて帰国し、堀耕助らと御循隊を組織した。慶応元年には木戸孝允に従い上京し薩摩との提携に尽し、長薩連絡の命にあたった。同年、大久保利通と岩倉具視に会い錦旗調製を託される。明治元年には整武隊参謀として奥羽に出陣、同年明治政府弾正少忠。明治3年欧州に渡り普仏戦争を見学し、帰国後の翌年権大史兼内務大丞、内務少輔、農商務大輔などを歴任。明治18年には独逸駐在持命全権公使として翌年赴任。明治24年には第1次松方内閣の内務大臣に就任。明治33年胃炎のため京都で病死。58才。
 
 

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